岡山吉備路に残る伝説をご紹介します。



岡山のシンボルとして全国的に定着している「桃太郎」。
その昔話、桃太郎のルーツとなる伝説が、吉備路に残る「温羅(うら)伝説」です。


温羅、別名、吉備冠者とも呼ばれる悪者が、鬼ノ城を住みかとして、西国から都に送る貢物を略奪したり、村の若い娘をさらったりと、悪事の放題をはたらいていた。彼の風体は身長一丈四尺(約4.2m)、両眼は虎のようにするどかったという。村人は温羅に大いに恐れおののいて、朝廷に直訴。そこで大和朝廷は、吉備津彦命を遣わし退治することになった。
さて、吉備の中山に陣をしいていた吉備津彦命。温羅の立てこもる鬼ノ城めがけて矢を射るものの、矢は、温羅の投げた巨岩と空中で衝突して、共に落ちてしまう。そこで吉備津彦命は一計を案じた。弓に一度に二本の矢をつがえて放ったのだ。その一本は巨岩に阻まれたものの、もう一本は、見事に温羅に命中した。鬼ノ城から流れる川は、彼の血を吸い、一面の浜を赤く染めた。とうとう温羅は、鯉に姿を変えて海に逃れようとした。それを知った吉備津彦命は鵜に化けて、この鯉をとらえて退治したので
ある。
今でも吉備路には、矢を射た「矢置岩」、矢と岩が落ちた「矢喰宮」、温羅が使用したといわれる鬼の釜、血吸川、赤浜、そして「鯉喰神社」と、温羅伝説にまつわる地名や旧跡が数多く残っている。





岡山市の歴史公園「高松城跡」。
約400年前、ここで歴史の大きな転換点となった戦国絵巻がありました。


天正十年(1582)、織田信長の天下統一が目前となった頃。信長は羽柴(後の豊臣)秀吉に毛利征伐を命じた。秀吉率いる三万の軍勢は、毛利方の武将、清水宗治が守る高松城を包囲。宗治は五千の兵士とともに城に立てこもった。高松城は平城。秀吉ほどの武将が、攻めあぐねるような城ではなかった。しかし、三方を沼に囲まれた地形に、秀吉は手をやいていた。西からは四万にのぼる毛利の援軍が、刻一刻と近づきつつあった。ここで登場するのが、秀吉方の軍師、黒田官兵衛だ。彼は、地形を逆手にとり高松城の”水攻め”を進言する。秀吉はこの策をただちに採用。足守川堤防から城を囲むように東南2600m、高さ6.5m、幅20mの大堤防を、わずか12日間で完成させた。折りしも季節は梅雨。せき止めていた足守川の濁流を一気に流し込むと、高松城は水の中の孤城と化した。勝敗はすでに決まっていた。しかし、ここで秀吉に一大事が発生する。天正十年六月二日、かの本能寺の変である。一刻も早く、京へとって返し、明智光秀を討ちたい秀吉。毛利側から出されていた和議に応じたのは翌三日の夜のことだった。和議は「城主清水宗治の切腹と高松城の明け渡し、かわりに城兵五千の助命」で成立。翌四日、小船で漕ぎ出でた宗治と供の者は、杯をくみかわし自刃。宗治46歳の生涯であった。
浮世をば 今こそ渡れ
武士の 名を高松を
苔に残して

宗治辞世の歌である。
この戦いの直後、秀吉は山崎の合戦で光秀を討ち、天下取りを果たすこととなる。




     

ホテル330グランデ倉敷 〒710-0046 倉敷市中央2-2-26 TEL:086-421-0330
(c)330 Allrights reserved.